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大阪地方裁判所 昭和57年(ワ)6651号 判決

原告 川口博

〈ほか一名〉

右両名訴訟代理人弁護士 神田俊之

同 奥野信悟

被告 学校法人 近畿大学

右代表者理事 岩城由一

〈ほか二名〉

右三名訴訟代理人弁護士 米田泰邦

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは連帯して、原告ら各自に対し、金五〇〇万円及びこれに対する昭和五六年一一月二八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  第一項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告両名は、昭和五六年一一月二七日被告学校法人近畿大学(以下「被告大学」という。)が設置経営している近畿大学医学部附属病院(以下「大学病院」という。)において死亡した川口麻衣子(同年一月六日生、当時一〇月。以下「麻衣子」という。)の両親である。

(二) 右当時、被告末包慶太(以下「被告末包」という。)は被告大学の医学部教授、被告嶋充浩(以下「被告嶋」という。)は講師であり、ともに医師として大学病院に勤務していた。

2  治療経過と事故の発生

(一) 原告両名は、麻衣子の法定代理人として昭和五六年三月二四日、被告大学との間で麻衣子の股関節脱臼の治療を目的とする診療契約を締結した。

(二) 大学病院の整形外科医であった被告嶋は、当初、麻衣子に対しベルト装着による治療(リーメンビューゲル法)を実施したが、股関節脱臼は完治しなかったため、同年一〇月六日麻衣子を大学病院に入院させた上、牽引治療(オーバーヘッドトラクション法)を実施した。しかし、なお完治しなかったため、同年一一月一六日、外科手術(観血的整復術)を実施する旨決定した。

(三) 右手術は同月二七日に実施された(以下「本件手術」という。)。麻酔担当医であった被告末包は、麻衣子に対しハロセン等の麻酔剤の緩速導入に次いで気管内挿管を行なったが、同児の脈搏が増加して瀕脈となり続いて房室結節性調律に移行しチアノーゼが発生したため、麻酔剤の投与を一旦中止してインデラールを投与し、右インデラールにより発生した徐脈に対し更にボスミンを投与した。被告末包は右処置により洞調律(正常調律)に復したものと判断して、再度気管内挿管によるハロセン麻酔を実施し、同日午前九時二〇分頃被告嶋による執刀が開始されたが、その直後麻衣子に瀕脈、次いで徐脈が生じ、被告末包、同嶋は手術を中止してボスミンの投与、心マッサージ、カウンターショック等の蘇生術を実施したが、同日午前一一時三〇分頃麻衣子は急性心不全により死亡するに至った。

3  被告らの責任

(一) 死因とその予見可能性

(1) 死亡診断書によると、麻衣子の死亡の原因は先天性心奇形(推定)による急性心不全とされている。

(2) 同児は体重一九八〇グラムの未熟児として出生し、先天性股関節脱臼、心室中隔欠損、漏斗胸、鼠径ヘルニア等の疾患があった上、母体との合併症をも有する可能性のある健康面で虚弱な幼児であった。しかも本件手術の実施された昭和五六年一一月においても心雑音が聴取され、心奇形は完治していなかった。従って、本件手術により麻衣子が死亡する具体的危険性を予見することは十分可能であった。

(二) 被告嶋の本件手術実施決定についての過失

被告嶋は本件手術の実施を決定する際、右(一)(2)の事実を知悉していたのであるから股関節脱臼の治療として観血的整復術しかないのか、麻衣子が手術に耐えうる体力を有するか、殊に心奇形の関係で麻酔剤の投与が心臓機能の異常をきたすことはないものか等を充分検討し本件手術により麻衣子が死亡するに至る危険性を予見して、同児の成長を待ち、心奇形が完治するまでは手術を実施しないよう判断すべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、漫然本件手術の実施を決定した過失がある。

(三) 被告末包の本件手術前の検査についての過失

被告末包は本件手術の麻酔担当医として麻衣子の全身状態を把握するため自ら同児の術前検査を行ない、(一)(2)の事実からして母親との合併症の有無、心奇形により麻酔剤の投与が心臓機能の異常をきたさないか等の検査をなすべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、術前検査を他の医師に代行させるとともに術前検査として不可欠の電解質検査、動脈血ガス検査等を実施しなかった過失がある。

(四) 被告末包の麻酔実施についての過失

(1) 麻衣子に対し気管内挿管によるハロセン麻酔を実施した後に房室結節性調律となった際、被告末包は右調律が同児の漏斗胸による呼吸機能の障害(換気不足)又は心奇形の影響による可能性があることを予見し、右についての検討を行うため本件手術を中止すべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、右調律が気管内挿管による交感神経の刺激によるものと軽信してインデラール等を投与した過失がある。

(2) しかも被告末包は、ハロセン麻酔中のボスミンの投与は不整脈を招来するため禁忌とされているにもかかわらず、右インデラール投与後ボスミンを投与し、更にハロセン麻酔を実施した過失がある。

(五) 以上の過失行為により麻衣子は死亡するに至ったものであるから、被告末包、同嶋は不法行為責任を、被告大学は被告末包、同嶋を履行補助者ないし被用者とする債務不履行責任又は不法行為による使用者責任を免れない。

4  損害

合計 各金一七一一万九八一〇円

(一) 逸失利益 各金六四一万九八一〇円

(1) 麻衣子の逸失利益は次の通りである。

① 就労可能年数 一八歳~六七歳

② 平均給与 年間金一三一万一三〇〇円

③ ホフマン係数

(イ)六七歳~〇歳 二九・〇二二四

(ロ)一八歳~〇歳 一二・六〇三二

(イ)―(ロ) 一六・三一九二

④ 生活費控除率 四〇パーセント

131万1300×(1-0.4)×16.3192=1283万9620(円)

(2) 原告らは麻衣子の右損害賠償請求権を共同相続した。

(二) 慰藉料 各金一〇〇〇万円

麻衣子は原告らが結婚後初めての子であり、原告らにとって最愛の存在であった。また同児は出生時より股関節脱臼、心奇形の疾患を有していたため、原告らは病院への通院を繰返し全力を傾注して同児の健康状態の回復に努力していたものであり、同児の死亡により原告らは回復し難い精神的打撃を受けた。

(三) 葬式費用 合計金四〇万円(各金二〇万円)

(四) 弁護士費用 各金五〇万円

よって原告らはそれぞれ被告ら各自に対し、被告大学については債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づいて、被告末包、同嶋については不法行為に基づいて金一七一一万九八一〇円の損害金の内金五〇〇万円及びこれに対する麻衣子死亡の日の翌日である昭和五六年一一月二八日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する被告らの認否

1  請求原因1の各事実を認める。

2  同2(一)、(二)の事実を認め、同2(三)の事実中チアノーゼが発生した時期、麻衣子の死亡した時刻を否認し、その余を認める。麻衣子が死亡したのは本件手術当日の午後五時四五分である。

3(一)  同3(一)(1)の事実は否認する。死因は先天性心奇形と推定されているにすぎない。同3(一)(2)の事実中麻衣子が未熟児として出生し、先天性股関節脱臼、漏斗胸、鼠径ヘルニアの疾患があったこと、心雑音が聴取されたことを認め、その余を否認する。心室中隔欠損も疑われていたがそれが確認されたわけではなく、仮にそうであるとしても聴取された心雑音は機能性のものであったから本件手術時には閉鎖したものと考えられていた。

(二) 同3(二)を争う。

(三) 同3(三)を争う。麻酔科として行う術前診察を他の者が行なったこと、動脈血ガス検査を実施していないことを認める。動脈血ガス検査は呼吸機能障害のない本件のような場合実施しないし、実施しても結果を予見できたものともいえない。電解質検査は実施している。

(四) 同3(五)を争う。

4  同4を争う。

三  被告らの主張

1  医療行為における過失の判断は、結果発生についての予見可能性の存在を前提として次にこれに対応できる医療体制の有無、当該医療行為の必要性とその程度等の事情を総合考慮して決せられるべきものである。

2  予見可能性について

麻衣子が未熟児として出生し、漏斗胸、鼠径ヘルニアの疾患があり、かつ仮に心室中隔欠損であったとしても、右事実は麻衣子の死亡とは無関係である。殊に心室中隔欠損については、麻衣子は本件手術前に二回大学病院の心臓小児科の医師の検査、診察を受け、〇度から六度まで(数値が大きくなる程音量が大きくなる。)の基準中二度の心雑音も聴取されているが、同医師により右心雑音は機能性のものであり仮に過去に心室中隔欠損があったとしても自然閉鎖したものと判断されていた。そして、右診断を前提として麻衣子は本件手術前に三回にわたり全身麻酔下に異常なく徒手整復を受けている。かように、麻衣子が本件手術により死亡する危険性を具体的に予見することは、不可能であった。

3  本件手術の必要性

(一) 先天性股関節脱臼による同関節の病的変化は、脱臼自体によって惹起される二次的変化であるから、脱臼状態が継続する限りその病的変化はより高度となり、同関節が正常に発育する可能性は整復時の年令が高くなるほど減少するため、右脱臼の治療は早期に実施する必要があった。

(二) 本件手術が決定されるまでに、麻衣子はリーメンビューゲル法、オーバーヘッドトラクション法、三回もの全身麻酔下における徒手整復を受けており、これらの治療方法の効果が現われなかったために観血的整復術(本件手術)を実施する必要があった。

4  被告嶋の無過失

被告嶋は右のごとく保存的療法を十分実施し、股関節脱臼の早期治療の必要上やむなく本件手術の実施を決定したものであり、前記2のとおり麻衣子の死の具体的危険性の予想が不可能であり、かつ、麻酔科医の術前診察を経ていたのであるから、右実施決定について何らの過失も存しない。

5  被告末包の無過失

被告末包は麻衣子の心機能についての前記心臓小児科医の診断及び本件手術の必要性についての被告嶋の判断を信頼し、それらを前提として麻酔管理や手術の可否の判断を行なったものであり、右判断に何らの過失も存しない。

第三証拠《省略》

理由

一  当事者

原告両名が昭和五六年一一月二七日被告大学の設置運営する大学病院において死亡した麻衣子の両親であること、右当時被告末包は被告大学医学部の教授、被告嶋は講師であり、ともに医師として大学病院に勤務していたことは当事者間に争いがない。

二  治療経過と麻衣子の死亡

1  請求原因2(一)、(二)の各事実、同2(三)の事実中チアノーゼが発生した時期及び麻衣子の死亡時刻を除いたその余の事実、同3(一)(2)の事実中麻衣子が未熟児として出生し、先天性股関節脱臼、漏斗胸、鼠径ヘルニアの疾患があったこと及び心雑音が聴取されたこと、同3(三)の事実中本件手術前に麻酔科の行なう術前診察を被告末包以外の者が行なったこと及び動脈血ガス検査を実施していないことはいずれも当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実と《証拠省略》を総合すれば以下の事実を認めることができ、これを左右するに足る証拠はない。

(一)  麻衣子は出産予定日より二四日間早い昭和五六年一月六日体重一九八〇グラムの未熟児として出生し、先天性左股関節脱臼、右鼠径ヘルニア、未熟児網膜症の疾患の外心奇形の疑い等があったため、当初訴外阪南中央病院において右疾患の診療を受け、同年二月二〇日には左股関節脱臼についてベルト装着による保存的療法の一つであるリーメンビューゲル法による治療を受けた。

(二)  その後の同年三月二四日麻衣子は大学病院整形外科において被告嶋の診察を受けた。被告嶋は、原告らの持参したレントゲン写真を読影して麻衣子を診察した結果、左右両股関節の開排運動は正常であったが脱臼整復感がなかったため当面リーメンビューゲル法により経過を観察することとした。なお、被告嶋は右初診時原告らから、阪南中央病院において心奇形を疑われ治療を受けている旨聞いた。

(三)  同年四月七日、五月一二日に被告嶋はレントゲン写真等により治療経過を観察したが、効果がさして現われていなかったためいずれ股関節造影により患部を精査する必要があると判断し、右五月一二日阪南中央病院小児科の訴外中田成愛医師(以下「中田医師」という。)に対し、心疾患があるとされている麻衣子が股関節造影のためのケタラールによる全身麻酔に耐えられるか否かにつき診察を依頼した。中田医師は同年五月一三日麻衣子を診察した上更に大学病院心臓小児科の訴外横山達郎医師(以下「横山医師」という。)に対する右同趣旨の診察依頼を内容とする紹介状を作成して原告らに交付し、同医師の診察を受けるよう指示した。

(四)  同年六月九日被告嶋はレントゲン写真等により麻衣子を診察したが、なお整復していなかったためリーメンビューゲル法を断念し、同児を入院させてオーバーヘッドトラクション法という牽引治療を実施することとし、右同日原告らに入院申込をさせ、同年七月七日に入院が予定された。しかし、右七月七日になって原告川口泰子(以下「原告泰子」という。)が麻衣子の離乳食が進まないこと、心疾患について不安があること等を理由に入院の延期を要望したため、入院は延期されることとなった。

(五)  同年八月六日麻衣子は中田医師の前記紹介状により横山医師の診察を受けた。右紹介状には中田医師の所見として、同年三月二〇日の心電図上左室肥大が認められ、同年四月二二日のレントゲン写真で心拡大及び肺血管陰影の増強が認められること、従前第四肋間胸骨左縁に四度の収縮期心雑音が聴こえたが同年五月一三日には二度程度に小さくなっていること等が記載されていた。横山医師は右心電図、レントゲン写真、紹介状を資料として麻衣子を診察し、中田医師が指摘した心拡大、肺血管陰影の増強及び心雑音を認めたが、幼児の特徴からして正常であり、心雑音についても従前の経過からして心室中隔欠損であった可能性が高く現在は自然閉鎖しており現在の心雑音は機能性のものであると診断してその旨原告らに説明した上、右診断内容及び外科的治療は差支えない旨の中田医師に対する報告書を作成した。

(六)  八月一九日被告嶋はレントゲン写真等により麻衣子を診察し、左股関節の臼蓋の形成不全を認めた。右同日原告泰子は被告嶋に対し横山医師から何も問題はない旨の診断を受けたことを伝えるとともに麻衣子の入院を従姉の訴外大森尚子と一緒にしたい旨申入れた。そこで、被告嶋は入院後に実施する予定の股関節造影及びケタラール麻酔の術前検査を実施することとし、同年九月二一日に心電図の記録及びレントゲン写真撮影を、同月二二日に血液化学、血液型の各検査が実施され、右心電図、レントゲン写真については各担当者によりいずれも正常と判断された。

(七)  麻衣子は同年一〇月六日に入院し、以後被告嶋及び主治医の訴外喜多寛医師(以下「喜多医師」という。)、同菊池医師の治療を受けた。被告嶋らは右同日直ちに麻衣子に対しオーバーヘッドトラクション法による牽引治療を開始するとともに患部を精査し、今後の方針を立てるために股関節造影を実施することとし、同月九日再度横山医師に対しケタラール全身麻酔下の股関節造影を実施する予定であることを告げた上、某医から心室中隔欠損(心房中隔欠損とあるは誤記と認められる。)を指摘されているとしてその診察を依頼した。横山医師は同年九月二一日に記録ないし撮影した前記心電図、レントゲン写真等を資料として麻衣子を診察し、前回と同様心異常は認められず心雑音は機能的なものと診断し、右一〇月九日中にその旨回答した。

(八)  これにより、被告嶋らは同月一二日ケタラールの筋肉注射による全身麻酔下に麻衣子の股関節造影を行ない、徒手整復が可能であったから爾後の治療方針としてオーバーヘッドトラクション法による水平牽引、垂直牽引、開排牽引を各一週間実施し、再度股関節造影により整復状態を確認した上ギブス固定を行なうこととした。右方針に従って牽引治療を実施した後、被告嶋らは同年一一月二日ケタラール全身麻酔下に股関節造影を行なったが、徒手整復の結果は偽整復に止まり、左股関節臼蓋内に整復障害因子の存在が疑われたため、更にオーバーヘッドトラクション法による治療を継続し、それでも治療効果がなければ観血的整復術を実施することとした。

(九)  これに従い、被告嶋らは同月三日オーバーヘッドトラクション法による牽引を再開するとともに同月四日全身麻酔のための検査を指示した。同月六日から同月一六日頃までの間に心電図の記録、レントゲン写真撮影、血球算定、血液凝固、抗体スクリーニング、尿、血液化学、血清反応系、血液型及び電解質の各検査が実施され、心電図、レントゲン写真、抗体スクリーニング検査については各担当者によりいずれも正常と報告された。また同月一四日には喜多医師、菊池医師から大学病院小児科に対し、同月一六日ケタラール全身麻酔下に透視を実施する予定であるが患児に下痢及び軽度の食欲低下症状があるからとして診療を依頼したところ、同科の訴外有田医師が麻衣子の診察、治療を行ない同児の右症状は同月一八日頃回復した。その間の同月一六日被告嶋らはケタラール全身麻酔下に股関節の透視を行ない、なお整復不良であったためオーバーヘッドトラクション法を断念し観血的整復術の実施を最終的に決定して同月一八日大学病院麻酔科に対し麻酔申込を行なった。手術は同月二七日に実施されることとなった。

(一〇)  麻酔科では麻酔申込がなされると医局員が分担して患者の術前診察を行なうこととなっており、麻衣子については同月二五日同科研修医の訴外佐々木某が指導医の指導下に術前診察を行なった。右佐々木は同児に心室中隔欠損、漏斗胸の疑いがあること、鼠径ヘルニアであることを知ったが、前記横山医師の診断や検査結果からして患者の麻酔前の一般状態を示す五段階基準でリスク2(軽度の全身疾患がある。)と診断した。被告末包は同月二六日右佐々木からの報告を受け、麻衣子のカルテ、諸検査記録等を検討した結果同児の右疾患は麻酔及び手術に関して重大な影響を及ぼさないものと判断し、同じくリスク2と診断した。

(一一)  同月二七日午前八時頃麻衣子が手術室に搬入されたが、麻酔担当医の被告末包は同児に心雑音及び心室中隔欠損、漏斗胸の疑いがあるとされていたため同児の触診、聴診を行ない、午前八時一〇分頃聴診を継続しながらハロセン(二・五パーセント)、笑気(毎分四リットル)、酸素(毎分二リットル)による緩速導入麻酔を開始した。その後、午前八時三〇分頃被告末包はハロセンの濃度を六パーセント、笑気を毎分二リットルにした上(酸素は毎分二リットル)内径三・五ミリメートルのチユーブにより気管内挿管による麻酔に移行したが、その直後から麻衣子の脈搏数が増加して頻脈となり更に右頻脈から房室結節性調律に移行するとともに血圧が低下し、チアノーゼ症状を呈したため、被告末包は午前八時五五分頃ハロセン、笑気の吸入を止め酸素一〇〇パーセントとして午前九時頃インデラール〇・二五ミリグラムを投与した。これにより麻衣子は一旦正常に復したが、更に徐脈となり心電図上心室心房乖離性調律に移行することが予想されたため、被告末包は午前九時一〇分頃ボスミン〇・二ミリグラム、メイロン一〇ミリリットルを投与したところ、右不整脈も正常な洞調律に復した。そこで、被告末包は午前九時一五分頃チューブを内径四ミリメートルのものに取替えハロセン一・五パーセント、笑気及び酸素毎分二リットルとして再度気管内挿管を行ない異常がないことを観察した上被告嶋に対し手術開始を指示した。

(一二)  そこで、被告嶋は同日午前九時二〇分頃執刀を開始し、麻衣子の左鼠径部達位に約五センチメートル切皮し皮下組織を同長同方向に切離した時再度同児に頻脈が生じ、被告末包の指示により執刀を中断した。その後暫時状態を観察したところ一旦正常な調律となったが午前九時三五分頃徐脈となり更にこれが心室細動に移行する傾向となったため、被告末包は直ちにハロセン、笑気の吸入を止め手術中止を指示し、午前九時四五分頃には切開部位の縫合を終えて以後カウンターショック、心マッサージ等の蘇生術が実施された。これにより麻衣子は一度は開眼し体動もあったが、再び心臓調律の変調、心室細動に陥り、右状態が繰返されたため被告末包は同日午後〇時一五分同児を手術室から集中治療室に移動した。そして、被告末包は蘇生術の実施、蘇生剤の投与を継続したが、同児は同日午後五時四五分頃死亡するに至った。

(一三)  なお主治医の一人であった喜多医師は右同日死亡診断書を作成し、麻衣子の直接の死因を「急性心不全」その原因を「先天性心奇形(推定)」と記載した。

三  麻衣子の死因

1  心室中隔欠損について

前示二2(五)、(七)に認定のとおり大学病院心臓小児科の横山医師は昭和五六年八月六日、同年一〇月九日の二回にわたる診察により、麻衣子が過去において心室中隔欠損であった可能性が高いが既に自然閉鎖しており当時聴取された心雑音は機能的なものと診断しているが、《証拠省略》によれば、心室中隔欠損の内軽症のものは自然閉鎖の可能性が高いから外科的根治手術は適応がないが、中等度ないし重症のものは外科的根治手術の適応があり、その際本件麻酔と同一の麻酔術が実施されることが認められるから、麻酔が麻衣子の心室中隔欠損に悪影響を与えたものとは考えられず、従って右心室中隔欠損が存在したとしてもこれが麻衣子の急性心不全による死亡の原因となったものとするわけにはいかない。

2  漏斗胸、鼠径ヘルニアについて

麻衣子には漏斗胸の疑い、鼠径ヘルニアの疾患があったが、本件全証拠によっても右疾患が同児の死因となったものとは認められない。

3  ボスミン投与とハロセン麻酔について

(一)  《証拠省略》によれば、ボスミンはアドレナリン(エピネフリン)の商品名であるが、ハロセン麻酔中のボスミンの一定量以上の投与は不整脈を招来するため禁忌とされていることが認められる。

(二)  そして被告末包は本件手術当日麻衣子に第一回の頻脈が発生した際午前八時五五分頃ハロセン麻酔の吸入を止め、インデラールを投与し、その後発生した徐脈に対し午前九時一〇分頃ボスミン〇・二ミリグラムを投与したこと前記認定のとおりであるが、前記二、2の(一一)、(一二)のとおりボスミン投与からハロセンによる再度の麻酔開始まで約五分間経過していたこと、麻衣子に再度頻脈が生じたのはハロセン麻酔再開直後ではなく、被告嶋による執刀直後であることに加え、《証拠省略》によればハロセン麻酔下の投与が禁忌とされるボスミンの投与量についての定説はないこと、被告末包は昭和三七年来麻酔医としての経験から右ボスミンの投与量は制限量を超えるものではないと判断していたこと、加えてハロセンは一般的には体外へ消失するのが早い麻酔薬でありボスミン投与時にはハロセン麻酔を止めており、麻衣子の血中におけるハロセン濃度は相当低下していたこと、以上の事実が認められ、これによれば被告末包が投与したボスミンとハロセン麻酔により麻衣子の心機能の異常をきたしこれが死因となったものとは認められない。

4  《証拠省略》によれば急性心不全は心臓自体の疾患による場合の外心臓の自動性に対して交感神経を通じて全身からの様々な刺激により惹起されることが認められるから本件全証拠によっても科学的に厳密な意味における麻衣子の死因を確定することは困難であるが、同児に心室中隔欠損及び漏斗胸の疑いがあったこと及び《証拠省略》を総合すれば、本件手術当時麻衣子に心室中隔欠損以外の何らかの心奇形が存在しこれが原因となってハロセン笑気による麻酔と執刀による侵襲により急性心不全を惹起した可能性が最も高いと考えられる。

四  被告らの過失の有無

1  被告嶋の本件手術実施の決定について

(一)  全身麻酔下の観血的整復術は患者に対する侵襲が大きく生命の危険を伴うものであるから、被告嶋としては本件手術の実施を決定する際、右より侵襲の程度が小さくかつ有効な治療方法が存在したならばこれを実施した方がより適切であるとともに本件手術を実施するとしても麻衣子がその侵襲に耐えうるか否かについての診察、検査を尽くすべき義務があることは論を俟たないところである。

(二)  《証拠省略》によれば、先天性股関節脱臼の治療の目的は脱臼による二次性の変形性股関節症の予防にあり、従って可及的早期治療が要請されること、現在の臨床医学において乳児期における股関節脱臼の治療方法としてはリーメンビューゲル法が最も優れたものとされていること、右方法によっても治療されない場合はオーバーヘッドトラクション法又はHanausek法に変更すべきこと、観血的整復術は右オーバーヘッドトラクション法又はHanausek法によっても整復されない場合にやむを得ず実施すべきものであり、少くとも患児が生後八か月以上になるまで待って実施すべきものとされていることが認められる。そして被告嶋は麻衣子に対し昭和五六年三月二四日の初診時よりリーメンビューゲル法を実施し、これによっても整復不良であったため同年六月には同児を入院させてオーバーヘッドトラクション法に変更しようとしたが、原告らの要請により入院を延期し、同年一〇月六日に入院後直ちにオーバーヘッドトラクション法を実施し、これも同年一一月二日の関節造影時には整復不良であったが直ちに観血的整復術を決定したのではなく再度オーバーヘッドトラクション法を実施してその効果がなかったためやむなく本件手術を決定したこと前記認定のとおりであるから、右被告嶋の処置に軽卒の点はなく、むしろ、前記現在の臨床医学における治療方法として適切なものであったものというべきである。

(三)  また本件手術実施決定の際の診査検査についても、被告嶋は同年五月一二日阪南中央病院小児科の中田医師に、同年一〇月九日大学病院心臓小児科の横山医師に対し、それぞれケタラール全身麻酔下における股関節造影に関してではあるが麻衣子の心機能についての診察を求め、いずれも正常である旨の回答を得ていること、同年一一月六日から同月一六日にかけて本件手術のための全身麻酔検査を実施し同児に麻酔科医の総合的診察を受けさせ、麻酔科医から手術を中止するよう指示がなかったこと前記認定のとおりであり、大学病院のような総合病院における各科の専門化と機能分担からすれば、右により被告嶋としては本件手術実施決定に際し必要な診察、検査義務を尽したものというべきである。従って被告嶋の本件手術実施の決定について過失を認めることはできない。

2  被告末包の術前診察について

(一)  本件手術の麻酔担当医であった被告末包としては、麻衣子が麻酔及び手術の侵襲に耐えうるか否かにつき術前検査、診察を実施し、その専門的知識と経験を基礎として当時の臨床医学における医療水準に照らし慎重かつ充分に判断すべき注意義務が存することもまた論を俟たないところである。

(二)  被告末包は麻酔科として行なう術前診察という形では行なっていないものの、本件手術の前日に右術前診察を行なった佐々木研修医の報告を受けた上麻衣子のカルテ、諸検査記録等を検討し、本件手術当日麻酔を開始する前に同児の触診、聴診を行なったこと前記認定のとおりであり、被告末包の麻酔医としての経験からして右により術前診察を行なっているものというべきである。

(三)  ところで《証拠省略》によれば小児の麻酔における術前検査としては問診、触診、聴診、体重、体温、血圧測定、レントゲン、心電図、検血、血液型、血清電解質、血液ガス、pH、尿検査などが必要とされており、本件手術前には肺機能、動脈血ガス検査を除いてすべて実施されていること、呼吸機能検査としての肺機能、動脈血ガス検査については麻衣子に呼吸機能異常の徴候がなかった上肺機能検査は患者の呼吸制御による協力が必要であり本件ではそれが不可能であったこと、実施された諸検査中白血球数が二万二八〇〇であり正常値の約二倍に増加していたがこれは検査日以前に実施された股関節造影等の影響によるものと考えられ麻酔及び手術には影響がないものであり、右以外の検査結果についても本件手術を中止すべき異常が発見されてはいないことが認められ、右事実及び心臓小児科の横山医師の前記診断内容からすれば、本件手術の実施については麻衣子の各種疾患等からして一般的な意味において危険性ないし危惧感があることは否めないとしても、当時の臨床医学における医療水準に照らし、術前検査(診察)によって麻衣子に心室中隔欠損以外の何らかの心奇形又は他の体質的素因があり本件手術により急性心不全に陥り死亡する危険性を具体的に予見することは不可能であったものというべきである。従って被告末包が被告嶋の本件手術の必要性の判断及び横山医師の心機能についての判断を前提とし、諸検査記録、術前診察等により麻衣子に軽度の全身疾患があるが麻酔及び手術に重大な影響がないとしてリスク2と判断し、同児に麻酔を実施したことに何らの過失も存しないものというべきである。

3  房室結節性調律が発生した際の被告末包の処置について

(一)  前記認定のとおり本件手術当日被告末包が午前八時三〇分頃チユーブによる気管内挿管を行なった直後から麻衣子に頻脈が発生し、午前九時頃までに房室結節性調律に移行したものであるが、《証拠省略》によれば気管内挿管により交感神経が刺激され頻脈となることはしばしばあり、被告末包の経験上通常一〇分間程度で自然に正常調律に復するが、子供の場合右頻脈から房室結節性調律に移行する場合が一〇例に一、二例程度の割合で発生すること、房室結節性調律の発生原因としては気管内挿管による交感神経の刺激、心臓疾患の外可能性として電解質異常、換気不足等が考えられること、しかし本件においては電解質異常を示す心電図の異常や下痢等の症状はなく、また換気不足もなかったこと、従って被告末包は右房室結節性調律の発生は気管内挿管による交感神経の刺激によるものと判断し、過去同様の場合にインデラールを投与し無事手術を終了した経験が相当回数あったため今回もインデラールを投与し、後に麻酔を再開したことが認められる。

(二)  原告らは房室結節性調律に移行した段階でそれが漏斗胸による呼吸機能障害(換気不足)又は心奇形の影響による可能性があることを予見しこれについて検討すべく手術を中止すべきであったと主張するが、右認定のごとく換気不足の事実はなく、また心奇形の可能性についても、房室結節性調律が心奇形の徴候であったかもしれないけれども、前記認定のとおり術前検査の結果は正常とされていた上、被告末包は過去同じような例でインデラール投与により無事に手術を終了したことが相当回数あったというのであり、医師の医療行為についての注意義務違反の判断がその医師の経験をも基礎としてなすべきことからすれば、右経験によりインデラールを投与して後に麻酔を再開した点につき過失が存したものということはできない。

4  ボスミン投与後ハロセン麻酔を再開した被告末包の措置について

前示二3のとおり被告末包が午前九時一〇分頃ボスミン〇・二ミリグラムを投与しその後午前九時一五分頃ハロセン麻酔を再開したことが麻衣子の死亡の原因であるとは認められないから右についての被告末包の過失を論ずる余地がない。

5  なお《証拠省略》中には被告末包が原告らに対し同被告に過失がある旨言明し、喜多医師も原告らに対し被告末包が過失があったことを認めていた旨伝えたとする供述ないし記載があるが、被告末包本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、右は麻衣子の死に対する同被告の弔意の言葉を原告らがそのように理解したものに過ぎないものと解せられ、これをもって被告末包に何らかの過失が存し、同被告がこれを自認したものとすることはできない。

五  以上によれば原告らの請求はその余の点につき判断するまでもなく失当であるからいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小北陽三 裁判官 辻本利雄 裁判官塩川茂は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 小北陽三)

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